イコール

気ままにつづられる1日に乾杯を――

話がどうしても書けないとき。

自分の書く”もの”のことを”話”と言ったり、”物語”、”小説”と言ったりしてしまうのにはわけがある。

 

たとえば、自分が”話”と言うときはたいてい、イメージはわいているけれどプロットさえ出来上がっていないもののことを指す。まだ到底、完成からは程遠い。それは自分の中では”小説”でも”物語”でもない。自分の頭の中の妄想、ただの夢見話と言った感じだ。短編や夢小説を”話”ということもある。

 

”物語”は多くの場合、現実離れしたもののことを指す。これは私だけの感覚だし、ほかの人はそうだとは限らない。SFやファンタジーは総じて”物語”だ。

 

最後に”小説”はそれこそ、完成形。これ以上、よくしようがない・自分の限界を出し切ったと思ったものは”小説”になる。自分で”小説”だと呼べる状態になるには短くて数か月、長くて数年かかる。だから、私の書いたもののなかで”小説”と呼べるものは非常に少ない。

 

 

毎日のように私はなにかしら書いている。

どんなにぐだぐだでも、下手でもいいから書いている。一行だけだっていいし、一ページでもいい。とにもかくにも、書いている。

そうでもしないと、すぐに書くということへの勘を失ってしまいそうで怖いからだ。

けれど、稀に書けないときがある。いや、稀と言うか最近はほとんどそうだ。書こうといざPCと向かい合って、プロットなり妄想なりを呼び起こして、キーを叩こうとする。……数分経つと、私はどうしようもなくなってPCを閉じてしまう。

指が動かないというのか、言葉が出ないというのか。出来上がっている話をそこに表現することができなくなる。これ以上ない苦痛を味わう。

 

結局、自分はダメだったのだと嘆息して、泣きそうになりながらも、別のことを始める。

 

いまだ、理由は分からない。

それは俗にいうスランプでもないだろうし、何というべきか、自分でもわからないのだ。ただ、書けない。白紙のページを目の前にして何をすればいいのかわからなくなってしまったみたいになる。苦痛と、不安。まるで、息をすることを忘れてしまったかのようなそんな気持ちになり、いたたまれなくなるのだ。

自分はこの世界では生きていけないと。